梅若丸の悲話と木母寺
 
平安時代の中頃、吉田少将惟房と美濃国野上の長者の一人娘・花御膳の間には梅若丸という男の子がありました。
若くして吉田少将がこの世を去った後、梅若丸は比叡山月林寺で修行に励むようになります。
しかし、同輩との諍いが原因し、月林寺を下山した梅若丸は、琵琶湖のほとり大津の浜(現・滋賀県)で人買いの信夫藤太と出合います。
信夫藤太は梅若丸を売り払おうと考え、奥州(現・福島県)へと旅を始めます。
 
長い旅を続けて二人が 武蔵国と下総国の間を流れる隅田川の東岸 関屋の里までやって来た時です。
梅若丸は幼い身での長旅の疲れから重い病気にかかり、動くことができなくなってしまいました。
  
信夫藤太はそんな梅若丸を置き去りにしたのです。
 
関屋の里人たちに見まもられ、いまわの際に
 
   『尋ね来て 問わば応えよ 都鳥 
          隅田川原の 露と消えぬと』
 
という辞世の句を残し、貞元元年三月十五日、梅若丸はわずか12歳の生涯を閉じてしまうのです。
 
 
一方、梅若丸の失踪を知った花御膳は狂女と化し、我が子を探しさまよい歩きました。
 
信夫藤太と梅若丸から遅れること一年、隅田川の西岸までたどり着いた花御膳は、川をわたる舟の中から、東岸の柳の下に築かれた塚の前で大勢の里人が念仏を唱えている光景を目にします。
舟から上がった花御膳に問われるままに里人は、当時12歳の梅若丸という幼子が病気になり、此の地で亡くなったのが、ちょうど一年前の今日であり、塚を築き、柳一株を植えて供養しているところだと告げます。
 
    『其は我子なり 
          梅若丸は此処にて果てたるか』
 
 
探し求めた我が子がすでに他界していたことを知った花御膳は深く嘆き悲しみながらも、里人たちとともに菩提を弔います。
その後、塚の傍らに庵が建てられ、花御膳が暮し始めますが、悲しみに耐えきれず水面に身を投げ、自ら命を断ってしまったそうです。
 
 
墨田区堤通の 梅柳山 木母寺 は、梅若丸を供養するために建てられた庵が起源とされています。
元は 隅田院梅若寺 と呼ばれていましたが、天正18年(1590年)、徳川家康によって、梅若丸と塚に植えられた柳に因み、「梅柳山」 の山号が与えられたそうです。
その後、 梅の字の 偏と旁 を分け 
「木母寺」 となったそうです。