梅鉢屋今昔物語
 
 
江戸時代より、 人形町に『伊勢一』という砂糖漬を製造する菓子店がありました。
伊勢一には非常に腕のいい二人の職人がおりました。
一人は田中豊作、そしてもう一人は元治元年(1864年)3月5日生まれの内田安太郎といいました。
  
  
江戸・砂糖漬舗としての梅鉢屋の始まりは、この内田安太郎です。
  
 
内田安太郎は、伊勢一にて、江戸時代より伝わる砂糖漬の製法を伝授され、やがて神田三崎町にて「内田商店」を構えるに至りました。内田商店では、野菜の砂糖漬を製造し、関東一円はもとより、東北地方にまで手広く販売しておりました。
 
相前後して田中豊作も「田中商店」を興しました。
 
 
 
また、幕末の頃、神田旅籠町(現・外神田1丁目あたり)に食品用着色料の店、「食紅問屋」を営む 丸山喜兵衛という者がおりました。
喜兵衛の息子、安政3年(1856年)3月21日生まれ辰五郎の代からは、コンペイ糖の製造も手がけるようになったそうです。
   
丸山辰五郎の長男 明治25年(1892年)7月20日生まれの丸山林之助は、明治36年、12歳にして神田三崎町の「内田商店」に奉公にあがります。
内田安太郎と丸山林之助は、親子ほども年の離れた「従兄弟」であったのです。
 
内田商店に奉公に上がった丸山林之助は砂糖漬の技術習得に研鑽を積み、大正4年、荒井ヤスとの結婚を機に、下谷竹町にて独立「丸山商店」を構えました。
 
幾度かの移転を繰り返し、大正12年には現・墨田区太平町、天神橋のたもとに店を開いておりました。
関東大震災で被災した丸山林之助は、その後、現・墨田区京島を経て、現在地へと店を移し、丸山林之助から次男・健二郎、そして林之助の孫にあたる、現店主・丸山壮伊知へと江戸砂糖漬の技は受け継がれてまいりました。
 一方、林之助が修行をした三崎町の内田商店、職人仲間の田中商店、そして江戸から続いていた人形町の伊勢一も後継者がおらず、廃業してしまい、江戸砂糖漬を伝承する菓舗は梅鉢屋だけとなってしまったのでした。
 
元々は「丸山商店」と名乗っておりましたが、現在の店名「梅鉢屋」は、大正12年9月、林之助一家が関東大震災に遭い、東へと逃げる途中、亀戸天神にて「家族全員の無事」を祈願したところ、願いが叶ったことから、亀戸天神の紋「梅鉢」に因み命名したということです。