002  一年のおしまいと一年の初め  2004年師走〜2005年睦月の頃

 2004年もおしまいに近づいた師走のある日の事、いつもの様にお稽古に伺った際のことです。
その日の茶室のしつらえは 「袋棚・志野棚」 と呼ばれるものでした。
中間の二つの違い棚にお茶入れを置いたり、柄杓・蓋置きを置いたりします。先生のお話では、
この 棚は一年のおしまいのこの時期にだけ使うものとのことでした。
何故?と思い、伺ってみると一年間学んだことをきちんと整理して袋に収めてしまっておいて欲しい
から、とのことでした。元は志野流の香道で使う棚に似せて作られた物で 「志野棚」 と言いますが、
伺ったような理由から、「袋棚」 という呼び名も有るそうです。

高さの違う棚と棚の間に空いている窓は 香狭間(こうざま) 
といいます。
この日の水差しは「芋頭」 ほくほくのお芋を連想させます。
  
      左の棚の下の袋戸を開けて中に替えの茶碗を入れておきます。


この一年も多くの事を教えて頂いた一年でした。仰せのようにきちんと整理して袋に収めておかなくては
と思いました。
「しまったままじゃだめよ」 とも言われました。仕舞いなくさないよう度々戸を開けようと思います。
  
椿の入っている花入れはその形から頭の長い福禄寿を連想させます。




ということで新年になり、七福神巡りをして参りました。
気の合う仲間たちと家族ぐるみで正月に七福神を歩く、というのがここ何年かの恒例となっています。
数年前に 「隅田川七福神」 を歩いたことから始まり、今年は 「浅草七福神」 を巡りました。

       大黒天 恵比寿 弁財天 布袋尊 福禄寿 寿老人 毘沙門天    

この七神をまとめて信仰する形は室町時代末期に起こったとされていますが、正月に七福神を巡ると
七つの福に授かり、七つの災いから逃れられるという七福神信仰は、江戸時代初期、徳川家康の
相談役に起用された 天海僧正 により人心を鎮め、治安を維持する行政のひとつとして採用され、
江戸市中にそれらの神を祀る寺社が数多く建ち、江戸庶民の間に流行し、この風習が全国に
波及したもののようです。今回歩いた浅草名所七福神は 七と言いながら九つの寺社を巡るものでした。


お天気に恵まれた1月3日、吾妻橋の袂に集合した私たちは人波にもまれながら浅草寺雷門をくぐり、
大黒天の祀られている浅草寺から出発しました。

浅草寺の参道、仲見世はお正月の飾りを施され
人も多くにぎやかでした。
途中で「揚げ饅頭がたべたい!」「アイス最中食べたい!」
「このお店のぞいていい?」等々要望が多く、
浅草寺の本堂に着くまでにかなりの時間が必要でした。


浅草寺に祀られているのは「大黒天」は古代インドの
神・マハーカーラ神 であり、 仏教の日本伝播と共に人々に
崇められるようになりました。
本来の大黒天は魔を払う軍神でもあったようですが、
五穀豊穣の神として今日に至っているようです。
参拝をすませた人たちは左右に分かれて本殿を出て行くのですが、
次の浅草神社へ向かうためには右の流れに乗って外へ出ます。

次はお隣の浅草神社。三社祭りの三社様と言ったほうが
いいのかもしれません。
ここに祀られているのは七福神の中、唯一の日本の神、
「恵比寿」です。漁業・商業・農業の神として古くから
招福・開運を祈願する人々の信仰を集めています。
浅草寺の大黒天と2体を1対として祀ることも有るそうです。 


浅草神社のお参りを済ませた後は浅草寺界隈の喧噪から少し離れて
言問通りを渡って待乳山聖天へと向かいます。この聖天様は本来の名を
「本龍院」といいます。ここには厄除け・難除け・財宝をもたらす神 
と言われる 「毘沙門天」 が祀られています。
本殿に向かう途中、気付くのが大根です。
大根を供えお参りするそうですし、境内のそこここに大根が描かれている
という珍しいお寺でした。
1月7日には 「大根祭り」 が催され、人々は大根を供え、帰りに
大根汁を振る舞われるそうです。


待乳山聖天を出て北へ進み、次は幸福をもたらすという 「福禄寿」
を祀る 今戸神社です。
ここでは大祓に使われる 「茅の輪」をくぐり参拝します。
大祓とは知らず知らずのうちに犯したであろう罪や過ち、
心身の穢れを 祓い清める為のもので6月と12月の末日に
行われるものです。
茅の輪くぐりの他に、紙を人型に切り抜いた物に名前と年齢を記入し、
さらに自分の体を撫でたり、息を吹きかけたりして罪・穢れを
人型に移し、川や海に流して身代わりに清めたそうです。
2004年の6月末日、私と娘のお茶の先生でもある百花園七代目ご亭主
佐原洋子先生と向島の白鬚神社の大祓に伺ったことを思い出しました。


今戸神社を出て隅田川に沿ってさらに北上すると 「布袋尊」 を祀る
橋場不動院です。布袋尊は10世紀初期の中国に実在した禅僧で
名を契此(かいし)と言い、常に笑みをたたえ、いつも布袋を肩に担ぎ、
喜捨を求めて諸国を漫遊し邪気・憂慮をいささかも感じさせず、人々の
信頼を集めていたそうです。この大きな布袋は堪忍袋と言って
寛容で度量の大きいことを表すそうです。
917年に没した後、人々は弥勒菩薩の化身であったと信じ尊び
幸福をもたらす神 「布袋尊」 として信仰したそうです。
  


橋場不動院よりさらに北上し、明治通りを渡った先、
南千住にあるのが長寿の神として知られる 「寿老神」
を祀る石浜神社です。
寿老人は中国に古くから伝わる道教の祖であり、老子の化身とも
言われます。
白髪・長頭で長寿の福徳を記した巻物をを付けた杖を持ち、
時に2000才ともいう若鹿をつれていることも有るそうです。
寿老人・寿老神という表記が分かれますがその違いについては
次の機会に 調べてみたいと思います。




石浜神社を後にすると次の吉原神社までは少し距離が有りました。
明暦の大火(1655年)の後、江戸元吉原(日本橋辺り)から
移転を余儀なくされ、千束村に新たに作られたのが新吉原でした。
「おはぐろどぶ」という掘り割りに囲まれた中にあった5つの神社が
明治5年合祀されてできたのがこの吉原神社だそうです。
弁財天は七福神中、ただ一人の女性であり、インドのサラスパティ
という豊かな川の神で芸術・学業の神と言われています。




8つ目に訪れたのは国際通りに面した鷲神社です。
ここに祀られているのは「寿老人」 です。もう10年ほど前に
一度だけ「お酉様」に来たことがありますが、熊手を売る店が
ぎっしりと並んでいたその時とは全く違うたたずまいでした。
酉の市は当初、農産物や農具の一部として実用的な熊手を
売る市であったそうですが、やがて熊手は幸運や財産を
かきこむ商売繁盛の縁起物となり、今に至っているようです。





いよいよ最後の矢先稲荷神社です。
ここには 「福禄寿」 が祀られています。
ここの福禄寿は長寿の象徴の鶴を脇に侍らせています。
1642年、3代将軍家光は武道の錬成を目的として、
京都の三十三間堂を模して浅草の地に三十三間堂と稲荷神社を
建立し、的の先に神社が有ったことから矢先と名付けたそうです。
三十三間堂では弓の鍛錬の為の「通し矢」が行われたそうですが、
これは120メートル先の的に向け弓を引き、24時間で何本通るか、
命中するか、を競うものだったそうです。
三十三間とは柱の間が三十三ある、ということで、俗にいう
一間=180センチ位の”間”とは違うと初めて知りました。





9つ目の矢先稲荷神社からカッパ橋道具街を抜けて浅草へ戻りました。
途中で寄り道したり、おしゃべりしながらでしたが、吾妻橋から約5時間かかったことになります。
仲見世へ戻った頃には陽もすっかりくれておおり、灯りに照らされた正月飾りがとてもきれいでした。
七つの福を・・・とまでは望みませんが、この一年、私の周りの家族・友人たちが健康で平穏に過ごせ、
楽しいことに出会えたらいいな、と心から思います。

ながながとお読み下さった方、ありがとうございました。今年もよろしく御願い申し上げます。




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