008   沖縄で考えたこと         2006年師走の頃



平成18年もあとわずかになってしまいました。秋が長かった今年は木々の色づきが遅く、
東京では師走になっても紅葉を愛でることが出来ました。





百花園の池の紅葉
今年は幸運な事に旅行の機会に恵まれた1年でした。春、娘とロンドンへ1週間の旅をしました。その時の感想は以前書かせていただきました。
その後、夏に友人と「バトントワリング世界大会」の応援・観戦を兼ねてローマを訪れました。
この旅のハイライト、バトントワリングにつきましてはいつかお話させて頂きたいと思っている
ところです。

そして先月、沖縄へ行って参りました。
この旅は、私の母のたっての希望で実現したものでした。

昭和3年生まれの母は、17才になる2ヶ月前に疎開先の長野で終戦を迎えました。
牛込で生まれ育った母は兄2人と姉・弟の5人兄弟でしたが、長兄はフィリピンで戦死している
そうです。戦死の知らせを受けて母は、祖母に連れられて遺骨を受け取りに行ったそうですが、渡された四角い箱の中に入っていたものは「石ころがひとつ」だけだったそうです。
12・3才〜17才という多感な時期を戦争の中で過ごした母は、20年8月、終戦を迎え戦後、結婚し私と弟、2人の子供を高度成長期の中で育てて来たのです。
その長い歴史の中でもいつも心に掛かっていた事は、見知らぬ土地で一人戦死せざるを得なかった兄のことだそうです。母は最近、若い頃にフィリピンまで行って兄の霊を慰めてあげられたら良かったのかな、と思うそうです。そして、せめて沖縄の南部戦跡を訪ね、この前の戦争の事をしっかりと心に刻み、兄の霊を弔いたい、との願いから11月初旬の旅が実現しました。


朝、羽田空港から乗った飛行機では大勢の修学旅行の高校生と一緒でした。友達とおしゃべりに興ずる高校生達はとてもにぎやかで楽しそうでした。

翌日、今回の旅の一番の目的地、南部戦跡を一日かけてゆっくり訪ねることにしました。
「ひめゆり平和祈念資料館」と摩文仁の丘にある「沖縄県平和祈念資料館」です。

「ひめゆり平和祈念資料館」は、終戦の年の3月に「ひめゆり学徒隊」として動員され、4月1日、米軍の沖縄上陸以降、熾烈な地上戦が繰り広げられた中で、主に陸軍病院での看護にかり出された少女たちの過酷な体験を、後世に伝える事を目的として1989年6月26日に開館されました。

 


ひめゆり資料館への入口
柵の中は当時学徒隊が
看護に当たった第三外科壕
また、「沖縄平和祈念資料館」は沖縄戦の犠牲になった多くの霊を弔い、歴史的事実を正しく全世界の人に伝え、恒久平和を樹立するる事を目的として設立されたものです。

ここでは、沖縄が琉球という独立した王国だった時代から日本への帰属、明治政府による沖縄処分、そして沖縄戦の実態、敗戦に続くアメリカによる支配、本土復帰、そしてそれ以後の沖縄の抱えている問題に至るまで詳しく知ることができました。

沖縄独特の赤瓦屋根ののった
沖縄平和祈念資料館
手前に置かれているのは
実際の砲弾



ひめゆり平和資料館」にはひめゆり学徒隊の歩んだ約3ヶ月間の事が、生存者のビデオ、または証言集と共に集約されています。

この前の戦争が終わりに近づく頃、当時沖縄にあった21の男女中等学校の生徒たちは、男子生徒は物資輸送・橋の補修を行う「鉄血勤皇隊」や通信隊として、女子は包帯の巻き方などの指導を受けただけで、主に陸軍病院での看護活動の為にそれぞれ戦場へ送り出されて行ったそうです。

その中で沖縄師範学校女子部、および沖縄県立第一高等女学校、2校の生徒222名、教師18名の計240名からなる「ひめゆり学徒隊」は3月23日の深夜、那覇の南方、南風原の陸軍病院へと動員されました。資料館のビデオ室ではひめゆり学徒隊に在籍し、生きて終戦を迎えることのできた人々の「証言」ビデオを見せてもらいました。25分ほどの作品ですが、今は70才代後半にさしかかる証言者のお話はどれも生々しく60年以上昔の話とは思えないほど鮮明な印象を見る私たちに与えてくれるものでした。

女生徒達は、『陸軍病院での看護』 と聞いて、弾の飛んでこない、赤十字の旗のはためく建物の中で働くものと思って南風原へやって来ましたが、実際に負傷兵が収容されていたのは丘陵に掘られた横穴・壕の中、むき出しの土の壁に沿って粗末な二段ベッドが置かれたところだったそうです。
4月1日のアメリカ軍・沖縄本土に上陸後は、前線からの負傷兵が続々と運び込まれたそうです。生徒達の仕事は、看護だけにとどまらず、水くみ、食料の運搬、伝令、亡くなった兵士の遺体処理、など劣悪な環境の中で、寝る間もなく働かねばならなかったそうです。

5月25日、米軍の侵攻から逃れるため、陸軍病院は本島南部へ撤退することになり、負傷者のうち、自力で歩ける患者を助けながら、傷ついた友をタンカにのせ、薬品等を背負った学徒隊一行は南部へと歩を進めます。歩けない者や重傷患者は置き去りにされ、または青酸カリを飲まされ、処置されたそうです。

たどり着いた南部の洞窟(ガマ)でも十分な医療が行えるはずもなく、毎日の様に何人もの患者が亡くなっていったそうです。

米軍が目の前に迫り、砲弾が飛び交う中、6月18日、陸軍病院では学徒に対し「解散命令」が出ました。学徒達は壕を出て、自分の判断で行動することを要求されたのです。日本軍司令部はこの時、過酷な戦況の中で、動員した学徒隊に対する責任を放棄したのです。日本の為、国の為と信じて苦しみに耐えてきた少女達に対し、大人の成す事ではない、許せない行為だと思いました。突然、戦場のただ中に放り出された年若い少女達の心を埋め尽くした絶望はどれほどのものだったでしょうか。

その後、6月23日に米軍による組織的な攻撃は終結しますが、3月の招集から90日間での学徒隊の死者が19人であるのに比べ、解散命令からの数日間で100名以上が命を失ってしまった事実は、何を物語るのでしょうか。

ある生存者の方の証言ビデオに 「解散命令を受け、お母さんの所へ帰りたいと幼なじみの友と手をつないで逃げる途中でその友が敵の弾に当たり、命を落とした。その友の写真を今も肌身離さず持っているが見るたびに『死んだ私はもうものを言えない、元気なあなたには話せる口がある。平和の為にみんなに伝えて欲しい』と言われている気がする。だから、私は思い出したくないけどお話します」 とありました。




沖縄戦で命を失った20万余りの 
名前を記した「平和の礎」
ひめゆりでも見かけましたが、平和祈念資料館にも多くの修学旅行生が訪れていました。
高校生達は20人くらいのグループで、解説員の方に引率され、館内を見学している様子でした。よく通る声での解説は私たちの耳にまで届き、文章や写真からくみ取れない事まで丁寧に解説をされているようでした。館内にはそんな解説員に伴われた高校生のグループがいくつも見学をしていました。
往路の機内で一緒だった高校生達もここを訪ねるのかもしれません。


順路の最後には、本土復帰以後の沖縄の抱える諸問題が提示されていました。未回収の遺骨があること、不発弾の撤去作業の終了までにはまだまだ年月を要すること、そして、米兵と米軍に関わる事件が起きていることなどです。沖縄においては60年以上たった今も戦争は終わっていないのだそうです。

展示の最後へさしかかった高校生たちに、解説をしている方の話が聞こえて来ました。

「今、憲法九条を改正しようとする動きがある。憲法九条が無くなるとはどういうことか、よく考えて欲しい。九条がなくなるということは日本全土が沖縄になる、ということです。今、君たちの見てきた沖縄での戦いが君たちの住む町で起こる可能性がある、ということなのです。もし、日本が九条はいらない、と言うなら、沖縄はその九条をもらって日本から独立したい。そのくらい九条は大事なものです。九条の意味を真剣に考え、皆さんと皆さんの子孫の為にどうか守り通してください」
この様な趣旨の事をあつく語っておられました。
資料館2階順路の最後
海と礎の回廊からの眺め



この秋、昭和天皇を描いたロシア制作の「太陽」という映画や、「父親達の星条旗」、「硫黄島からの手紙」といったこの前の戦争を扱った連作の映画が封切られるなど、戦後61年目の今年、多くの目がこの前の戦争に向けられている様に思います。
クリントイーストウッドが2部作のこの映画について「祖国の為に尊い命を捧げてくれた多くの人の事を忘れるような浅はかな人間になってはいけない」とコメントしていましたが、忘れないと同時に、二度と起こさない、繰り返さない為にはどうすればいいのか、考えなければならないと思います。

10代の若者たちが、何も疑問に思うことなく、国の為とむしろ進んで戦場へ向った、これは当時の学校、および家庭での教育の結果だと思えます。今、私たち大人は子供に対して、正しく教育を施しているのか、悲劇を繰り返さない為に、大人こそが、大人の責任においてよく考えなくてはならないなと思いました。

防衛庁が防衛省になり、解説員の方の話の様に憲法改正の動きも報道されています。日本は次の戦争の準備を始めた、ということなのでしょうか。

私の幼い頃、町角に立つ傷痍軍人を見かけました。おそらく私たちが戦争の跡を実際に見た最後の年代かも知れません。先人の経験から戦争がどれほど残忍なものであるかをきちんと理解し、次の世代へ伝えてゆく義務が私たちにはあるのではないでしょうか。

旅の最後に読谷のきれいな海を眺めてまいりました。 奇しくも読谷は米軍が沖縄本土へ上陸した地点だそうです。
曇り空の下でしたが、海は本当にきれいでした。シーズンにはマリンスポーツを楽しむ方でにぎわう事でしょう。海辺でのリゾートが第一の目的でもかまいませんから、沖縄を訪ねる機会を是非作って資料館を訪れて欲しいと思いました。


最後に冬に近づき花の少なくなる中で咲いていたサザンカです。日本原産の花でツバキの仲間ですがツバキ先駆けて咲きます。花言葉は 「謙譲」 へりくだり譲る気持ちを忘れずにいたいと思います。





長々お読み下さり、ありがとうございました。平成18年はこの見聞録をあまり更新できませんでしたが、来年もまた宜しくお願い申し上げます。

寒さに向かいます、どうぞお身体大切に、よいお年をお迎えくださいませ。






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